50年前

椅子に座って机上で判決事例とか裁決事例とか税法の条文とか通達を読んでいると、時々昔のことが思い出されます。

昭和43年に浜商を卒業して就職しました。

初級国家公務員試験に受かり税務職員として名古屋国税局が運営する税務大学校名古屋研修所へ入所することになったので、同じ敷地に建っている寮に入りました。

1年間ここで税法とか民法とか商法簿記会計等の税務職員として必要な知識を、初歩的な事ですが、身につけることになるのです。

校舎は名古屋城のすぐ近くにありましたので、お城の堀周りの道路をジョギングしたこともあります。隣の護国神社では、名古屋場所が開催されると時津風部屋の力士が土俵を作り稽古をしていました。見物に行くと、豊山とか北葉山とか安念山というテレビの画面に映る人々がそこにはいました。

税務大学校を卒業すると、緑区にある鳴海寮に入りました。名鉄有松駅から名古屋駅まで電車通勤が始まりました。配属先は、名古屋中村税務署です(ちなみに、中村税務署は四国の高知県にあります)。寮から同じぐらいの距離に左京山駅がありますが、有松には急行が停車するので有松駅を利用しました。左京山は土曜日の帰りに降りました。途中に喫茶店があったのでここへ寄るためです。

有松にはパチンコ屋がありました。暇な時に、一つ一つ球を入れてバネではじく台を選び遊んだことを覚えています。食品スーパーもあり、タコ焼きとか大判焼きとか焼きそばを売っていましたので、帰りにタコ焼きを毎日のように買って食べました。寮は坊主山という山の頂にありました。有松駅まで徒歩で20分ぐらいかかったと思います。

近くに大高緑地公園があります。池のボートを力任せにこいでいたら、どうしたらそんなに早くこげるのかと尋ねられたことがありました。ジョギングで往復したこともありました。寮には卓球台、麻雀卓がありましたので、よく遊びました。長野県のスキー場へ行きスキーをしました。当時はボーリングとか社交ダンスが流行していましたので、これらもやりました。いずれも上達しませんでした。残念です。

愛知大学車道校舎へ4年間通学して卒業しました。愛知大学ではワンダーフォーゲル部(山岳部だったかもしれません)に入り南アルプスを縦走したり、三重県の御在所岳へ登ったりしました。

女性と思うように話ができなかったので、彼女がいなかったということもあって、このようになったと思います。

名古屋中村税務署では、徴収課に配属され滞納処分の仕事に従事しました。単車に乗って出張し滞納者宅を訪問して現金領収するという毎日でした(歳入歳出外現金出納官吏という証票を持っていないとできません)。50年前ですから、中村区にはまだ戦後のバラック建ての住居が残っていて、整然とした都会の雰囲気はあまり感じませんでした。名古屋駅から税務署までの道筋には、夜になるとおばさんが立っていて「お兄さんいい子がいるよ」と声をかけられることもありました。

中村公園には大鳥居が建っている太閤神社があります。豊臣秀吉の出身地であることが中村区の住民にとって誇りである、ということがその当時はあまり感じませんでした。仕事で行く場合と観光で行く場合とでは受ける印象が違うようです。

2年間勤務しましたが、2年目の署長が東大出の署長で、小村さんといったと思います。30代でした。奥さんがブリジストンの社長の娘という噂でした。ある時に、トイレでばったり一緒になり声をかけられました。私が恐縮していると、今まで一度も話をしたことがないのに、私の名前、出身地、親の年齢とかを言われてビックリしてしまいました。200何人かが仕事をしているのですから、そんなことを言われて喜んで席に戻り隣の先輩に話をしました。すると先輩は「署長は職員全員の名前を憶えているものだから当然のことだ」と言いました(後の経験で別の税務署ではこのような人は一人もいませんでした)。東大出身の署長の記憶力には驚くばかりです。この方は、事務次官になりました。やっぱりそうなんですよ。

徴収課で仕事をした人々は、課長が小村さん(署長の小村さんではありません),久保さん、上席が桑原さん、加藤さん、係長が小森さん、佐伯さん、おばさんの瀬田さん(旧遊郭の経営者の娘で独身)、徴収官が熊田さん、長谷川さん、伊藤さん、片岡さん、依田さん、堀田さん、小森さん、西尾さん、吉田さん(二人いました)、辻川さん、ばん沢さん、橋本さん、坂本くん、等が思い出されます。皆さんどうしているのかな。税理士になってお金を稼いで優雅な暮らしをしているのかな。私は、一人になったので、毎日が散歩(HbA1cの現在値6.0を維持するため)、在職中にできなかった税法の勉強という生活スタイルになっています。お客さんが増えればいいなと考えて高い金を払ってホームページを作りましたが、成果が出るのはこれからということでしょう。期待しています。